スポーツ障害から生き方を学ぶ―ケガをめぐる競技者たちの語り

編著者:杉野 昭博

ISBN 978−4−903690−58-2, 発売日:2010年07月31日, 判型:四六版, 408頁

生活書院 税込み2625円


2010年12月24日更新

 本日は、クリスマス・イブです。勤務先の関西学院はミッション・スクールなのでお休みかなと思っていたんですが、図書館はあいていました。盲学校時代の教え子のN君が知らせてくれた「リハビリテーション」誌12月号に掲載された書評を読みに行きました。書評してくれているのは、日本体育大学の田中信行さんです。アダプテッド・スポーツがご専門のようです。またまたスポーツ界からの反応で、うれしい限りです。なかなか目に触れにくいメディアだと思うので、一部、下記に抜粋させてもらいます。

 「実は先の学生の疑問(障害者スポーツの選手たちは、できることなら健常者に戻りたいという気持ちで競技しているのではないか?)については、障害者スポーツの分野においても(なぜか)触れられずにきている。むしろインタビューに答える選手の発言(「できるだけ健常者と対等に勝負できる種目を選んだ」など)が、当たり前であるかのように団体や指導者がとらえている感がある。また、障害者スポーツ分野であっても、「障害」について正面(医学以外の分野)から議論しにくい雰囲気もある。結果的に(いわゆる“健常者を対象とする”)スポーツ大会や体育施設において障害のある人も当たり前に居る“共生”の問題もオブラートに包まれたままである。この点を間接的にではあるが本書で示したことは驚きである。」
『リハビリテーション』第529号, p.49(発行:鉄道身障者福祉協会)

 これを読んだ時は、思わず「イェイ!」。 ついでに、退会しちゃったんでしばらく目を通していなかった『社会学評論』をパラパラ見てたら、「テーマ別研究動向」に「障害の社会学」というテーマがたてられて、後藤吉彦さんが書いてました。昔は、社会学会大会の口頭発表でも「障害」だけをテーマにした分科会なんて成り立たなかったんですけどね。隔世の感があります。でも、色んな分野から「障害」について語る人が湧き出てくるのは、すごくいいことだと思います。僕らの世代は、そういうあちこちで出てくる「語り」を広げたり、つないだりしなきゃいけないんだろうなと思っています。


2010年12月4日更新

 関西大学での最後の杉野ゼミの学生たちと「体育会系『障害学入門』」というつもりでつくってみました。2007年に出版した『障害学―理論形成と射程』は、大学院レベルの教科書だったので、今回は、幅広い人たち、とくに、これまで「障害学」との接点がなかったようなスポーツ関係の人たちに「障害学」に触れてもらいたいという気持ちで書きました。

 8月初旬に書店に並んでから4ヶ月近くたちましたが,色々な人から感想が寄せられました。いくつかをここに紹介したいと思います。

 まずは、KMさん、STさんから

 「ケガを負った経験者本人の手になるエッセイが予想外に読ませる。学生の文章とあなどるなかれ。」

 「学生がここまで書くとは・・・」

 といった感想をいただきました。出版にあたっても、学生の文章を載せることについて「プロ目線」からいくつかご意見はいただきました。ただ私自身は、どちらかというと「学生の文章」というよりも「当事者の語り(ナラティブ)」というようにとらえていました。なので、大学教員が身びいきで自分のゼミ学生の文章を本にするというようなかたちにはならないように注意したつもりです。

 とはいうものの、読み手によってどのように読まれるのか不安はありました。すると、出版直後に友人のOBさんから

 「少し泣きたくなるようないい本でした。」という感想をいただきました。

読み手にこちらの意図がストレートに伝わるかすごく不安だったので、この感想をもらった時は本当にほっとしました。

 さらに最近、まったく存じ上げなかった方ですが、月崎時央さんというジャーナリストの方がブログで次のように紹介してくれました。

 私の仕事の詳細やこの本をつくる上での背景事情などを知らない人にも、この本のメッセージが正確に伝わるんだと月崎さんのブログを見て確信できました。

 ところで、これらの感想は、月崎さんも含めて、「障害学」を知っている人たちからの感想で、「これまで障害学と接点がなかったスポーツ関係の人たち」にどの程度読んでもらえるのか、また、どのように受けとめられるのかということは、やはり不安がありました。そうしたなかで、トレーナー関係の専門誌『月刊トレーニング・ジャーナル』が11月号で書評を載せてくれました。評価はけっこう厳しくて、アマゾンなら「二つ星」ってとこみたいでしたが、まったくこれまで自分が立ったことのない土俵で勝負できたことがうれしかったです。たぶん社会学や社会福祉学で私の研究を「まとまりのない研究」なんて言ってくれる人は誰もいないんで、言われてとても新鮮な気分でした。50代半ばになっても、若い人から批判してもらえるってことはホンマに幸せなことだと思います。自分が若返った気分になれますから。

 トレーニングジャーナルの書評がきっかけでトレーナーの方が読んでくれて、ブログに紹介してくれています。http://ameblo.jp/ai-atc/entry-10686378902.html トレーニング・ジャーナルの書評も、この方のブログも同じですが、トレーナーの人は、ケガした選手を日々現場で支えているトレーナーの役割をもっときちっと書いてほしかったというご意見だと思います。たしかに、スポーツ障害の世界は、身体障害や精神障害の世界に比べて、リハビリテーション的支援がまだまだ不充分で、障害学(社会を変える)の必要性とともに、医療も含めたリハビリテーション(個人を支える)体制の整備も必要だと研究しながら感じていました。ちょっと乱暴な言い方かもしれませんが、日本のスポーツ障害の現状は、障害福祉の世界で言えば「総合リハビリテーション」以前、1950年代くらいの状況と言ってよいかもしれません。

 ところで、障害学になじみのある読者と違って、トレーナーの人たちは「学生たちの語り(ナラティブ)」に共感して、書評やブログでも多数引用してくれています。それは、この人たち自身が、多かれ少なかれ「ケガの当事者」でもあるからだと思います。そこは、障害リハビリの世界とスポーツリハの世界の違いだと思います。トレーナー(リハ職)自身がまた「障害」の当事者でもあるということです。

 私がこの本にこめた願いは、「語り」が共感の連鎖を拡げていくことでした。それは、体験を共有することでもあります。それは今思えば、私自身の学問上の出自である文化人類学の民族誌的記述へのノスタルジーがあったのかもしれません。

 人類学をともに学んだ旧友のKNさんは、この本について「厚い記述」という感想を寄せてくれました。「厚い記述」というのはアメリカの文化人類学者クリフォード・ギアツによる民族誌記述の方法論のことで、対象を深く掘り下げて詳細に記述するということです。人類学の民族誌において「厚い記述」が求められるのは、異文化という「共有しにくい体験」を共有するためには、詳細に深く掘り下げないと共感を得られにくいからだと思います。

 表面的な記述では「他人事」で終わってしまいがちです。そういう意味では、KNさんのコメントは、私にとって面映いものでした。実は、私は当初この本のタイトルを『スポーツ障害の民族誌』にしようと考えていたのです。

以下、Amazonの「なかみ検索」のようなものをつくってみました。クリックすると少し読めます。


スポーツ障害から生き方を学ぶ―ケガをめぐる競技者たちの語り

いろんな人の精一杯

 

スポーツ障害の紙芝居


付録:論文「スポーツ障害の障害学的研究」ワードファイル

あとがき


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