私の「スポーツ障害」     アキヒト

 私が野球を始めた理由、それを語るには、まず私の両親がどのような人物なのかということと、家庭の状況が重要になってくる。

 私の父は三重県の出身で、中日ドラゴンズの大ファンで、ドラゴンズが負けた日は突如として機嫌が悪くなり、勝つと“恵比須顔”というように、熱狂的なドラゴンズファンだった。休日はいつも“しんどい”と言って、家族サービスを全くする人ではなく、私と接してくれる時間はほとんどなかった。しかし、父がテレビでドラゴンズの中継を見ている横で、一緒になってドラゴンズの応援をしている時だけは、とても機嫌が良くうれしそうで、私に接してくれる数少ない時間のうちの一つだった。だから、私は子供ながらに父の顔色を窺いながら、ドラゴンズを応援しているフリをしていた。そうすることでしか父とコミュニケーションをうまく取れないし、親に見捨てられてしまうのではという恐怖でいっぱいだった。野球中継を一緒に見ながら、私はよく父の機嫌を取るために『どうやったらプロ野球選手になれるの?』と聞いた記憶がある。そうすると父はさらに上機嫌になり、『日本一弱い東京大学に入って、四年間で8季連続優勝させたらプロの12球団から1位指名がもらえるぞ』と嬉しそうに私に話してくれた。私はまだ小さかったし、野球の世界の仕組みなんぞ全く知らなかったので、その事がどれだけ難しく不可能に近いことなど知る由もなく、『僕絶対やってみせる』と本気で答えていた。

    中略

 中学校に入ってからも迷わず野球部に入部した。野球を始めたきっけけが上記のような理由だったが、始めた当初は、野球をしている時は嫌なことを忘れさせてくれるし“野球が楽しい”という気持ちはあった。しかし、その頃には既に野球本来の楽しさは薄れていた。勝つことが、結果を残すことが“自分の居場所”を保ち続ける方法だと思うようになっていたので、レベルの高くない公立高校の野球部に入部することは嫌だった。ただ、小学校や中学校でずっと一緒だった仲間と高校でも野球を続けていきたいという気持ちもあったので迷いに迷った。親に高い学費を払ってもらうのも気が引けた。迷った挙句、小学校6年生の時の高校野球の甲子園大会で春夏連続出場(春準優勝、夏ベスト8)をしていた大阪の私学の野球部に入部することにした。小学校・中学校ではある程度結果を出せたし、自分の力がどれだけ通用するのかを野球の本場で試してみたかった。

 入学してみると今まで知っていた世界とは別世界だった。ここで3年間やるのかと思うと気が遠くなって逃げ出したい気持ちになった。それでも地元の野球の友達に対する意地もあったし、負けるのは嫌いだったので練習についていくのに必死だった。入学してからは、練習後も22時半過ぎに家に帰ってから自主練をしたり周囲との遅れを取り戻すのに必死だった。そんなある日、憧れだった監督に初めて声をかけられた。『お前は将来うちのチームの3番、4番を打つ素質が十分にある。』と。びっくりして目が点になったが、その言葉がうれしくて、さらに自分の体を徹底的に苛め抜いた。その時はまだ下手くそだったので周囲の選手から、遠征メンバーに選ばれたりするたびに陰口を言われたこともあった。一方で「言いたい奴には言わせてたらいいし、お前は自信もってやったらええやん」と言ってくれる奴もいた。そしてようやく回ってきた初めての出番。自分で言うのも何だが、見事に結果を残すことができた。内容は4打数2安打2打点。“努力は人を裏切らない”という監督の言葉がはじめて身にしみて実感することができた瞬間だった。しかし、その時には体はボロボロだった。

(杉野昭博『スポーツ障害から生き方を学ぶ―ケガをめぐる競技者たちの語り』2010年 生活書院より抜粋)転載はしないでください