SPSN(社会政策研究ネットワーク)関西 第8回研究会      川島聡 報告用レジメ 2008年9月13日(土) 関西学院大学 大阪梅田キャンパス (茶屋町アプローズタワー10階) 1002教室 障害者の権利条約の概要と展望 1 採択・発効 (1) 障害者権利条約(以下,CRPDと略す)の採択日は06.12.13,発効日は08.5.3,日本署名日は07.9.28である.CRPDを日本は未批准である.(Cf. 女性差別撤廃条約の採択日は79.12.18,発効日は81.9.3,日本署名日は80.7.17,日本批准日は85.6.25である.子どもの権利条約の採択日は89.11.20,発効日は90.9.2,日本署名日は90.9.21,日本批准日は94.4.22である.) (2) 2008年7月29日時点で,CRPDの署名数は130である.(Cf. 女性差別撤廃条約は98,子どもの権利条約は140である.) (3) 2008年7月29日時点で,CRPDの締約国は,以下の32カ国である.(Cf. 女性差別撤廃条約は185,子どもの権利条約は193である.) オーストラリア(08.7.17), バングラデシュ(07.11.30), クロアチア(07.8.15), キューバ(07.9.6), チリ(08.7.29), エクアドル(08.4.3), エジプト(08.4.14), エルサルバドル(07.12.14), ガボン(07.10.1), ギニア(08.2.8), ホンジュラス(08.4.14), ハンガリー(07.7.20), インド(07.10.1), ジャマイカ(07.3.30), ヨルダン(08.3.31), ケニヤ(08.5.19), マリ(08.4.7), メキシコ(07.12.17), ナミビア(07.12.4), ニカラグア(07.12.7), ニジェール(08.6.24), パナマ(07.8.7), ペルー(08.1.30), フィリピン(08.4.15), カタール(08.5.13), サンマリノ(08.2.22), サウジアラビア(08.6.24), スロベニア(08.4.24), 南アフリカ(07.11.30), スペイン(07.12.3), タイ(08.7.29), チュニジア(08.4.2). (4) CRPDの締約国会議(条約発効後6カ月以内に開催)において,締約国は,障害者権利委員会の12人の委員(政府代表でなく個人資格で職務遂行)を選出する.(委員の数は,後に18人まで増加される.) 2 構成 (1) CRPDは,前文と本文50カ条から成る.1〜30条は実体規定,31〜40条は実施措置,41〜50条は最終規定. (2) 実体規定には,目的,定義,一般原則,一般的義務,非差別・平等(合理的配慮・ポジティブアクション),アクセシビリティ,インクルーシブ教育,情報アクセス,司法アクセス,拷問・虐待等の禁止,法的能力(権利能力・行為能力)の承認,自立生活と地域社会へのインクルージョン,(リ)ハビリテーション,社会保障(社会保護),労働権等が含まれる(包括的な規定内容). (3) 実施措置は,国内実施(33条)と国際実施(34~39条)に分けられる.CRPDは,国際実施として,国内における条約の実施状況を国際的に監視し、審査する「報告制度」を設ける.国内実施に関する論点は,後記8(1)参照. (4) CRPDの選択議定書(OP)は,CRPDの締約国が任意に締結できる.この選択議定書は,「個人通報制度」と「調査制度」を設け,本文18カ条から成る.7月29日時点で,選択議定書の署名数は71,批准数は19である. 3 三大特徴 (1) 三重の意味での混成条約:「自由権+社会権の混成条約」,「無差別+ポジティブアクションの混成条約」,「人権+開発の混成条約」という三重の意味での混成(ハイブリッド)条約. (2) 二重の意味での差別禁止:差別の同一モデル(直接差別)と,差別の差異モデル(合理的配慮の否定)という二重の意味での差別禁止. (3) 障害者の参加(Nothing about us without us):条約策定過程のみならず条約実施過程においても,当事者参加が,条約の正当性と実効性のために不可欠である.当事者参加の規定としては,一般的義務(4条3),国内実施(33条3),国際実施(34条3(4条3),34条4,35条4(4条3))の各条項を参照. 4 必要性 約6.5億人(世界人口の1割)もの障害者の人権保障について,国際人権法における理論と実際との乖離を埋めるために,CRPDが必要となる. 5 目的・意義 (1) 現行国際法上の全ての人権を,全ての障害者に対し,完全かつ平等に保障するため,個別具体の法的義務を国家に課すとともに,その義務の履行を国際的に監視する障害者権利委員会への報告義務を国家に課す.(CRPDは,新しい権利を創ることを目的としていない.) (2) 障害者は,保護・更生・医療・福祉の客体ではなく,人権の主体である,との「障害の人権モデル」を国際的な行動規範・一般原則とする. (3) 障害者の不利・排除・差別の原因は,障害者個人ではなく,国家と社会に帰属すべきである,との「障害の社会モデル」を,国際的な行動規範・一般原則とする. 6 解釈 条約解釈の際に依拠される条約文(正文)は,6つの国連公用語(英,仏,露,西,中,亜)である.日本では実務上,政府訳(公定訳)が重要な役割を果たす.条約の用語は自律的意味を有し,条約法に関するウィーン条約(1969年採択,1980年発効,1981年日本加入)に基づいて解釈される(本条約31条と32条に定める解釈原則に従って,条約を解釈適用する必要があるとした判例として,例えば大阪高判平成6・10・28,判時1513号).本条約31条は,条約の解釈に関する一般的な規則を定める.同条1項は「条約は,文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い,誠実に解釈するものとする」と定める.32条は「解釈の補足的な手段」を定める.「解釈の補足的な手段」は,31条の適用によって得られた意味を確認するために依拠することができるほか,31条による解釈では意味が曖昧・不明確であったり,不合理な結果となったりする場合にも依拠することができる.「解釈の補足的な手段」には「条約の準備作業」が含まれる. 7 効力・適用・批准 (1) 日本が批准した条約は,国内法としての効力を有する(憲法98条2項).条約が国内的効力を有するからといって,すべての条約のいかなる規定も,国内裁判所で直接適用されるわけではない.様々な人権条約の報告審査や国家報告等で日本政府が述べるところによれば,国内裁判所で条約規定を直接適用できるか否かについては,その規定の目的や内容,文言等を勘案して,具体的場面に応じて判断される. (2) 条約の効力順位は,憲法より下位で,法律より上位である.よって,条約の批准に当たり,条約規定と国内法令との明白な抵触を回避することは法的観点から必須となる.CRPDの批准に当たっては,第1に,立法裁量や行政裁量の範囲内で許容されていた現行国内法令とその運用で,条約の規定に抵触すると解されるものは,早急に見直して変更しなければならない.(「欠格条項」をはじめ個別具体的な検討を要する問題である.)第2に,この条約と国内法令とが明らかに抵触していない場合でも,条約の目的をより良く実現するための立法措置や行政措置を講ずることは一般的に期待されている(See, 横田, 1991. See also, 川島=東, 2008). (3) 日本の立法府の動向としては,「国連障害者の権利条約推進議員連盟」(中山太郎会長)の取り組みがある.また,行政府の動向として,「障害者権利条約に係る対応推進チーム」が,本条約の締結に向けた検討を行っている(外務省,内閣府,総務省,法務省,文部科学省,厚生労働省,経済産業省,国土交通省,警察庁の関係各課から構成される.).その他,厚生労働省の主導(職業安定局高齢・障害者雇用対策部長による開催)で,「労働・雇用分野における障害者権利条約への対応の在り方に関する研究会」が,労使団体、障害者団体,学識経験者等の参加の下で,開催されている.これは,条約締結に向けた環境整備を図るため,職場における合理的配慮その他の対応の在り方を検討する研究会である(原則公開,議事録公表). 8 基本論点 (1) 条約の国内実施:CRPDは主要人権条約で初めて,国内実施・監視の独立した条文を設けた.それによれば,CRPDの実施事項を扱う「担当部局」(focal points)を政府内に指定する(33条1項).「調整機関」(coordination mechanisms)を政府内に設置・指定することに十分考慮する(33条1項).パリ原則を考慮に入れ,条約実施の促進,保護,監視のための枠組み(適当な場合には「独立した仕組み」を含む)を,国内で維持・強化・指定・設置する(33条2項).促進(promote)は市民啓発や教育を,保護(protect)は訴訟参加・訴訟援助,救済申立ての審査を,監視(monitor)は条約実施の審査,法案の答申・提起を意味する(See, UN-DESA et.al, 2007. See also, 川島=東, 2008). (2) 社会権の漸進的達成義務と即時的適用義務:社会権の「完全な実現」は漸進的に達成される側面が強い.しかし,社会権であっても「非差別」等については即時的義務を国家が負う場合があることは国際法上すでに確立している.CRPDの交渉過程でも,「非差別」が即時的実現義務に服することに合意は得られていた.社会権規約2条1項や子どもの権利条約4条とは異なり,CRPD第4条2項は,社会権であっても即時的な実施が可能であることを明示的に規定している.これにより,「社会権規約の裁判規範性や具体的権利性を一律に否定するような一部の誤った条約解釈を,障害者の権利条約の解釈にそのまま持ち込ませる余地を一切与えない歯止めが条文上明示的にかけられたことになる」(川島=東, 2008, citation omitted). (3) 合理的配慮:CRPDにおいては,主要人権条約で初めて,「合理的配慮の否定」(denial of reasonable accommodation)が差別の一形態として明記された.条約交渉の比較的最後の段階まで,「日本政府は,「合理的配慮の否定」と障害差別との関連性を否定していた.そのような姿勢を見せていたのは,現行法の解釈や運用による対応のみでは,本条約における非差別概念としての合理的配慮に関する義務を誠実に履行し得ない,と日本政府が考えたからである,との推測は成り立ち得る.(中略)日本には「合理的配慮の否定」を障害差別であると明示し,それを明確に禁止する国会制定法が存在しない.それゆえ,日本政府が現行法制のままで本条約を締結するならば,合理的配慮の確保義務をめぐり本条約と国内法が抵触する,との一応の推定(prima facie presumption)が当然働くであろう」(川島, 2008, citation omitted). (4) 私人間の差別:上記の合理的配慮と関連する論点として,私人間の差別が挙げられる.CRPD第4条1項(e)は,「締約国は・・・いかなる個人,団体又は民間企業による障害に基づく差別をも撤廃するためのすべての適切な措置をとること・・・を約束する」と定めるが,この規定が私人間に直接適用されるわけではない.憲法上の人権の私人間効力と同様に,本条約が私人間に適用される場合には,私法の実体規定(民法90条や709条等)を通じて条約規定が間接的に適用される(なお,民法709条,710条を通じて,私人間における人種差別撤廃条約の間接適用を認めた判決として,浜松宝石店入店拒否事件,静岡地浜松支判平成11・10・12,判時1718号).しかし,特に私人間における障害差別禁止については,現行法制度を前提とする司法救済の限界を踏まえ,新たな立法措置の可能性を早急に探る必要性がある.(See, e.g., 池田, 2007). 9 訳語問題(以下は,問題のありそうな政府仮訳の一部を抜粋したものである.) (1) 補助的及び代替的な意思疎通 augmentative and alternative communication (Art. 2) (2) 施設及びサービスの利用を可能にすること accessibility (Art. 3(f)) (3) 妥当な費用 affordable cost (Art. 4(1)(g)) (4) 同一性を保持する権利 right to preserve their identities (Art. 3(h)) (5) 女子 women and girls (Art. 6(1)) (6) 自律的な意思決定力 empowerment (Art. 6(2)) (7) 生活支援 live assistance (Arts. 9(2)(e); 20(b)) (8) 障害 obstacles (Art. 9(1)) (9) 自然環境 physical environment (Art. 9(1)) (10) 心身が健全であること physical and mental integrity (Art. 17) (11) 人的支援 personal assistance (Art. 19(b)) (12) 障害者を包容する教育制度 inclusive education system (Art. 24(1)) (13) 完全な包容 full inclusion (Art. 24(2)(e)) (14) 教育制度一般 general education system (Art. 24(2)(a)) (15) 聴覚障害者の社会の言語的な同一性 linguistic identity of the deaf community (Art. 24(3)(b)) (16) 視覚障害若しくは聴覚障害又はこれらの重複障害のある者 Persons who are blind, deaf or deafblind (Art. 24(3)(c)) (17) リハビリテーション habilitation and rehabilitation (Art. 26) (18) 職業リハビリテーション vocational and professional rehabilitation (Art. 27(1)(k)) (19) 社会的な保障 social protection (Art. 28) (20) 聴覚障害者の文化 deaf culture (Art. 30(4)) (21) 中央連絡先 focal points (Art. 33(1)) 10 参考文献 池田直樹「障害者権利条約成立の背景と意義」大谷美紀子ほか『国際人権法実践ハンドブック』現代人文社(2007年) 川島聡「障害者権利条約における差別禁止と合理的配慮」障害者職業総合センター編『調査研究報告書』87(2008年) 川島聡=東俊裕「障害者の権利条約の成立」長瀬修・東俊裕・川島聡編著『障害者の権利条約と日本――概要と展望』生活書院(2008年) UN-DESA et.al, Handbook for Parliamentarians on the Convention on the Rights of Persons with Disabilities and its Optional Protocol, 2007 横田洋三「子どもの権利条約の国内実施」自由と正義42巻2号(1991年) *本レジメは,日本弁護士連合会「第52回国際人権に関する研究会」(2008年4月9日),東洋大学朝霞校舎における講演(2008年6月14日),及びアジア経済研究所における報告(2008年6月24日)で用いたレジメに加筆したものである.