アメリカ障害学に関するいくつかの疑問

 アメリカ社会モデルは、イギリスと比較して、障害者を排除するメカニズムとして、制度的・構造的障壁よりも、人々の偏見などの観念的障壁を重視する傾向があると理解することによって、英米の障害学を同一の理論的枠組みでとらえることが可能となる。しかし、障害学の成り立ちや、さらに、障害者運動と障害学との関係などを考えると、イギリスに比べてアメリカの障害学には理解しにくい点がいくつか存在する。たとえば、障害学の成り立ちについて言えば、イギリスの場合は、マイケル・オリバーという障害学の創始者と言える主要人物がおり、その理論的影響も容易に跡付けることができる。また、オリバー理論と障害者運動との相互作用も比較的明確であり、障害学の「当事者学」としての性格は明白だろう。一方、アメリカの場合、「障害学の父」と呼ばれたアーヴィング・ゾラのほか、デイビッド・ファイファーやハーラン・ハーンなど、障害学を担う主要な当事者研究者の名前はあがるものの、ゾラが社会学者であるのに対して、ファイファーとハーンは政治学者であり、多くが社会学理論を共有しているイギリスの障害学に比べると、良し悪しは別として、アメリカの障害学には理論的統一性はそれほど見られない。また、障害学の研究教育に携わる非障害者も多いし、大学教育においては、リハビリテーション学部のなかで障害学の講座が設けられている場合も多い。

 一方、障害学と障害者運動との関係に目を転じると、イギリスでは、ポール・ハントが1970年代に創設したUPIASが障害学に与えた理論的影響は明白だし、90年代以降の障害学の台頭がイギリス国内の障害者運動の発展に与えた影響も明らかだろう。ところが、アメリカの場合は、アメリカ史上もっとも重要な障害当事者運動である自立生活運動と障害学との理論的関連は必ずしも明確ではないし、1970年代後半以降の障害者権利運動やその成果である障害をもつアメリカ人法Americans with Disabilities Act(ADA)は、障害学と一体のものだと言われるが 、アメリカ障害学の幅広さを考えると、これをすべて障害者の権利主張や差別禁止の論理へと還元することにはためらいを感じる。

 アメリカ障害学をめぐるこれらの疑問点は、大きく二つの課題へと収斂されていくだろう。一つは、アメリカ社会モデルの理論的展開を明らかにすることである。イギリス社会モデルは、個人モデルと理論的に対峙することによって、障害の原因を個人ではなく社会に帰属させる点を明確にした。一方、アメリカ社会モデルは、反医学モデルという点では共通するが、ファイファーが障害学理論として9つのモデルをあげたように理論的には相当の幅を有している。(Pfeiffer 2001)たしかに、アメリカの障害学や障害者運動の理論のなかに、イギリス社会モデルと同様の主張を見つけることはできる。たとえば、1980年代半ばに登場したハーンのマイノリティ集団モデル(Hahn 1985)は、「変わるべきは個人ではなく社会」という原則を明確に示している。また、デジョングが示したリハビリテーション・パラダイムと自立生活パラダイムの対比図(DeJong 1983: 23)は、オリバーの個人モデルと社会モデルの対比図(Oliver 1996: 34)ともよく似ており、デジョングは「問題の所在」を「個人」ではなく「環境」に置く立場を明示している 。しかし、アメリカ障害学において支配的な障害モデルは、障害を個人と環境の相互作用の結果としてとらえる相互作用モデルであり、この考え方の起源は1940年代にまでさかのぼれるものであり、障害学理論というよりもリハビリテーション理論として発展してきたものである。だとするならば、アメリカ障害学は理論的にはリハビリテーション学を継承するものなのか、また、障害学とリハビリテーション学との理論的違いはどこにあるのかといったことを明らかにする必要があるだろう。

 二つめの課題は、一つめと関連するが、アメリカにおける障害当事者運動の位置づけをもう少し明確にすることである。たとえば、1970年代後半以降の障害者権利運動は障害学の発展にどのような影響を与えたのだろうか。さらに言えば、障害者権利運動に関しては、一部のエリート障害者によるロビー活動 であって、「ADAの成立に向けて障害者の草の根運動はなかった」といった評価もある。(Fleischer & Zames 2001: 105) あるいは、「障害者権利運動は連邦政府によって作られたものである」(Berkowitz 1994: 106)といった見方もある。いずれにしろ、障害者権利運動の当事者性を疑わせるコメントであり、障害学の当事者性にも疑念が生じるだろう。こうしたコメントの根拠を明らかにした上で、障害者権利運動の性格と意義を明確にする必要があるだろう。

 1970年代後半以降の障害者権利運動の当事者性に一定の限界があったとしても、それが障害者による広範な支持を受けていたと考える根拠は自立生活運動に求められる。「ADAの成立に向けて障害者の草の根運動はなかった」という批判に対して、フライシャーとゼームスは全国の自立生活センターによる運動をあげて反論している。ところが、自立生活運動自体も、当事者運動という面においていくつかの限界を有しているのではないかという疑念が生じる。一つは、自立生活運動は専門家支配を批判しつつも、制度上、リハビリテーション制度の一環として位置づけられているのはなぜかという疑問である。二つめは、とくに1970年代の自立生活運動がもっとも重視していた政治目標は、自立生活センターへの連邦資金援助であって、差別禁止法制を目標とした障害者権利運動とは運動目標が異なるのではないかという疑問である。三つめには、自立生活運動が、たんなる在宅介助サービスの要求にとどまらず、障害者の公民権を要求する必然性がどこにあったのか明らかにする必要がある。障害者の当事者運動としての自立生活運動が、何をどこまで求めていたのか、これまで日本に紹介されているレベルよりも詳細な検討が必要なのである。さらに、障害をもつアメリカ人法は、社会変革手段なのか、そうだとすれば、それがなぜ保守主義政権によって促進されてきたのかを説明する必要もあるだろう。また、今後、アメリカの障害者はマイノリティ集団として権利要求をしていくつもりなのか、それはなぜなのかといったことにも答える必要があるだろう。

(杉野昭博『障害学―理論形成と射程』2007年 東京大学出版会より抜粋)転載はしないでください