混迷する論争と文脈依存性

  障害学の理論的核心は「障害の社会モデル」と呼ばれる認識枠組みである。この点については、英米の障害学をはじめ世界的なコンセンサスができている。ところが、「社会モデル」とは何かと問うと、たちまち議論は混迷を深めていく傾向にある。社会モデルにはアメリカ版とイギリス版の二種類があるという指摘がある。マイケル・オリバーに代表されるイギリス社会モデルは、障害を制度的障壁としてとらえ、障害問題を「機会と結果の不平等」問題として扱う。これに対しては、主として、インペアメントと障害当事者個人の経験を無視しているという批判がある。さらに、その批判にも、医療社会学による外在的批判と、フェミニスト障害学による内在的批判という二つがある。つまり、同じような批判でも、一方は、障害学そのものに対する懐疑的な批判だが、他方は障害学もしくは社会モデルの理論的発展をめざした建設的批判である。

 イギリスに対して、ゾラに代表されるアメリカ社会モデルは、障害を社会の偏見的態度としてとらえ、障害問題を「(結果ではなく)機会の不平等」問題、すなわち「差別」問題として扱う。しかし、アメリカ社会モデルにも、司法的解決(社会モデル)と意識変革(文化モデル)のいずれを重視するか、あるいは、障害者アイデンティティを強調すべきか(マイノリティ・モデル)、健常者/障害者といった二項対立的カテゴリーの無効性を強調するべきか(普遍性/連続性/多様性モデル)といった点について、やはり内部論争と外在的批判の双方が存在する。

 一方、日本においても、社会モデルをめぐっては、さまざまな反応や論争が障害学の内外にある 。たとえば、「変わるべきは(障害者)個人ではなく社会である」という社会モデルの主張(Oliver 1996a: 37)は目新しいものではなく、日本においてもすでに1970年代から言われていることであるという冷めた反応が、障害者運動の内外にある。社会モデルが既知のモデルであるとみなして、その革新性を否定することは、障害者運動内部においては、日本国内におけるこれまでの運動の正当性や、世界の障害者運動の中における日本の障害者運動の先進性を示唆することになるだろう。一方、リハビリテーションや障害者福祉の専門家や研究者にとっては、社会モデルが既知のものであるならば、個別援助アプローチに対する社会モデルの批判はすでに「解決済み」の問題として斥けることができる。また、障害者と健常者との違いを強調する「差異派=文化モデル」と、両者の同一性と共生を強調する「平等派=社会モデル」といった理論的立場をめぐる議論がある。しかし、この議論も、それが障害者運動内部のものか外部のものかによってその意味は大きく異なる。たとえば、障害当事者が、平等、すなわち、「障害者も健常者も同じである」と主張したとしても、それはけっして「すべて同じだ」と主張しているわけではない。むしろ、健常者と同じようにはできないという前提のもとに、同じようにできるようにしてほしい、あるいは、同じように扱ってほしいというのが平等派の主張である。一方、差異派による「健常者とは違う」という主張にも、その前提として「同じ人間だ」というメタ・メッセージが含まれているのは言うまでもない。にもかかわらず、障害者運動の外部においては、ともすれば、障害者だけで暮らしたいのが差異派で、健常者と共生したいのが平等派であるというような極端に単純化された解釈がなされることがある 。また、差異派・平等派論争は、フェミニズムの分析枠組みを障害問題にあてはめたものだが、生物的差異も文化的差異も含めてあらゆる性差を否定するというポストモダン・フェミニズムによる「基盤主義foundationalism」批判を障害にあてはめて、障害と健常のあらゆる差異を否定するといった議論もなされている。しかし、障害と健常という二項対立的カテゴリーを無効とする主張は、けっして、「反基盤主義」の専売特許ではなく、「基盤主義」に属するはずのリハビリテーション学においても主張されているし、ゾラに代表されるように障害学の内部にもそうした主張は古くから存在する。つまり、障害と健常というカテゴリーの無効性を同じように主張していても、それを誰が何のために主張しているのかという文脈によって、その意味は異なるのである。

(杉野昭博『障害学―理論形成と射程』2007年 東京大学出版会より抜粋)転載はしないでください